歴史のある手工具

祖父母の古い工具を使って、ご先祖、手仕事、伝統とつながる

 

私が3歳くらいのとき、父が繰子錐 【 くりこぎり:手回しドリル 】で床に穴をあける様子を、眺めていたことを覚えている。父がドリルを回す度に、キリキリと刃が床材に食い込んでいく音を聞いていた。板から木屑がクルクルと巻き上がっては落ちていく。父は完全に仕事に集中している。当時の思い出はほんの2、3だが、これはそのうちの1つ。あの時間は私にとってまるで儀式のように厳粛に感じた。

  私の家は、広大な土地やアンティークでいっぱいの部屋があるような家ではなかった。代わりにもっと微妙な、たとえば技や、物語や道具類、自分の手を使った仕事などの形で、私の家族は遺産を受け継いできた。私の分割相続の第一弾は、手作りの道具箱だった。それは幅1x長さ6インチ(2.5x15.2cm)の板数枚と、山形に折れた金属シートで作られていた。取っ手はアルミの棒切れでできていて、古いホースでカバーしてあった。今でもそのまま使っている。木部はこすられてツルツルとなり、金属板はさびている。箱の底はおそらく60~70年分の汚れがそのままになっている。

  その箱を手に入れたとき、中には6本のさびたスパナと使い物にならないポケットナイフ、モンキーレンチ と、めがねレンチ2本と、砥石と、4台の穴あけ機と、小さな6、7個のすり減ったドライバーと、素晴らしい骨董品のプライヤーと、時代遅れのデザインのホースの止め金が3つ入っていた。

  手作りの道具箱には、他にもよく分からないものが2、3個入っていた。1つはある種のナットドライバーで、今でも持っているが、用途が分からないので使ったことはない。木の取っ手の小さなナイフも入っていたが、かつて動物の蹄をカットするための蹄鉄用ナイフだったのかもしれない。そのナイフは、私のところに来る前に刃先が折れていて、もともとの形は分からなかった。去年、私はそのナイフを失くした。雪の日で、干し草の俵を開くのにナイフを使った時だ。ナイフであらゆることをしたが、ついに蹄をカットすることはなかった。ナイフを失くしてさびしく思っている。

  私が初めてそのナイフを見たのは、祖父の手の中だった。もしかしたら父だったかもしれない。彼らはよく一緒に仕事をしていた。道具は2人のものだった。よく他の親戚や友達から祖父たちは道具をもらっていた。私は1978年、祖父が亡くなった年にその道具箱と中身を貰った。箱は私と共に歴代の約20の車やトラックに乗りこみ、ミネソタからメキシコ国境近くまで、太平洋の海岸沿いから大西洋へと広がる9つの州で、12の町に移り住み、小屋やガレージに置かれてきた。

  それでいて、道具箱はある場所の匂いがした。祖父母の家の物置の匂いだ。湿った砂と使用済オイル、クモの巣と蒸れ腐れの匂い。その匂いは、あの『家』をまざまざと呼び起こした。

  最近、この古い道具箱を父が私の車の後ろで見つけ、なぜ持ち歩いてるのか尋ねてきた。私は父や祖父が使っていた道具で作業するのが大好きだし、古い道具について書き物をしているからだと答えた。

  「お前、俺たちの古い道具がほしいのか?」彼は言いった。「たぶん下にたくさんあるぞ。」1時間後、彼は私を呼んだ。

  「お宝発見だ。これはみんなお祖父さんの道具だよ。お前が欲しがるなんて、きっとお祖父さんも喜んでるよ。みんなこの箱に入ってる。見たらきっと驚くぞ。」

  父の発掘で、手彫りの木彫と鋲打ちされた取っ手のある小鎌や、いくつかの馬具部品、約10cmの浮子式測定装置、びっくりするほど多種にわたるレンチ、中には巨大な、3フィート(1m)の長さで10ポンド(4.5kg)もの重さのスパナなどが見つかった。

  ただ私は収集家ではない。実際、私は物持ちの悪い方だ。物を失くしたり壊したりするのだ。他の物の上に放り投げたりもした。私の兄弟は収集家だ。彼はきっと私は物の価値が分かっていないと言うだろう。おそらくそれは正しいのだろう。彼は美しく保管した鉄道線路模型を家に飾っている。私はそれを見たり触ったりするのが大好きだ。

  一方、私はキレイな鞍を持っているが、納屋の古い毛布の下で、埃とクモの巣にまみれている。いつかキレイにしてオイルを塗り、照明を当てて家の中に置くことを考えるのが好きだ。でもおそらく、クモを追い払って、何か動物の背中に置く機会があるまで、納屋に置いておくだろう。私は使わないものをわざわざ鑑賞することはしないのだ。

  使えるものが好きだ。バランスのとれたハンマーや、良いレンチ、ブーツや手袋、帽子などだ。それらをしょっちゅう使っている跡が好きだ。たとえばすり減った取っ手や、傷のついた金属部、汚れや汗ジミ。すり減っていても丈夫な道具類は、知り合いや愛する人々が使ったものなら私にとって特に貴重なものとなる。さらに知人たちがその古道具を使っているところを私が実際に見た場合はなおさらなのだ。

  これは審美的な評価だろうか、それとも郷愁?

  15年前、私は『Farm Collector』や『Gas Engine Magazine』や『Motorcycle Classics』などアンティーク機械の雑誌に関わって、今でもビジネスの一部だ。こんな新しい社会の輪 ― たくさんの修理工歴史家(grease-moneky historian) ― の間をウロウロとし始めた時、すぐに気付いたことは、機械の主な価値は転売価値にも機能にも希少価値にも無いということだった。収集家にとって、アンティーク機械の価値は、モノに付随する物語にあるようだった。どこでみつかったのか。誰のものだったのか。どこで作られたのか。どれくらい丁寧に使われたり、乗られたり、運転されたりしたのか。またそれは誰によってなのか?

  おそらくそこに、私の曽祖父、祖父、父やその他すべての人々の手の中にあった古道具への、私の関わり方のルーツがある。私たちの道具は部族で言うトーテムだ。伝統の象徴なのだ。私たちは道具の周りで儀式を執り行ってきたのだ。宗教とは関係のない産業や仕事の儀式だ。たとえそんなふうに呼んだことがなくても、やはり儀式なのだ。

  これらの伝統のうちいくつかは過去のものとして忘れさられている。納屋にある馬具や引っかけ重石はおそらく二度と使われることはないだろう。でも伝統のうちのいくつかは、今でも現代生活の一部となっている。私は祖父のプライヤーでワイヤーを切り、父の鉋(かんな)でドアの角を削っている。

  家には宗教的伝統もあった。しかし生活は主に店や家や納屋という俗的な寺院で行われていた。子供の頃、祖父母や両親とともに教会に座っていた思い出もあるが、もっとはっきり覚えているのは、父の隣で床にしゃがみ込み、父が新しい電気配線を通すため、手回しドリルで床に穴を開けている様子だ。また祖父がハンマーで屋根板の鋲留をやってる様子も見ていた。ハンマーは今でも道具箱の中にあり、今では私のものだ。

  小さな少年にとっては、釘を打つために必要とされる力とその一連の動きは超人的なものに見えた。私はワクワクしながら、父がとても優美に力強く穴開けするのを見ていた。父のようになりたいと思った。

  私は練習した。4、5歳の頃、祖父が家に駐車場を作った。私を手持ち無沙汰にさせないように、彼は予備のマイターのこぎりを私に渡した。そして2台の木挽き台の上に約2X6インチ(5x15cm)の板を置き、私にどこをカットするのか見せた。彼が再びやってきて、私がなんとか垂木に1インチ(2.5cm)の溝を何本か引くことができたのを見ると、驚き喜んだ。祖父はその板を屋根に使った。私の手仕事を目につく場所に置いてくれた。彼がその板を私にむかって最後に指差したとき、私は大学生だった。私が少しサボったのにもかかわらず、屋根の重さを支え続けていた。

  私は結局、師匠たちの尊敬すべき力や技術の中のいくつかを習得した。しかし私の中では、いまだに彼らは理想像なのだ。彼らの道具を取り出し、このわが家宝を使うとき、動きは神話的で、英雄のような気分になる。

  この古い道具は聖剣だ。道具を通して私たちは自分の仕事、世界、先祖、そしてお互いと通じ合っている。