のびのび育つ: 自然愛が沸いてくる

子供たちが深く自然とつながる気持ちになるには、のびのび歩き回る時間が必要。

今日の基準から見れば、私が幼い頃に両親から受けた教育には、保護者の怠慢と見られても仕方がない面があった。でも、そのおかげで私は最高の幼少期を過ごすことができた。

私はニューメキシコ州南部とメキシコのチワワ州との境界線から800メートルと離れていない地で育った。当時、国境付近はまだ揉め事は少なかったが、我が家の近くは平穏とは言えなかった。密輸業者や不法移民が、国境を示す破れた有刺鉄線のフェンスを超えてひっきりなしに行き来していた。自宅の庭からは日に何百人もの不法な越境を目撃することができた。アメリカ合衆国税関・国境警備局の職員が丘の上から監視し航空機で上空を巡回していたが、人の流れを阻止することはできなかった。高い犯罪率は国境を挟んだ両側の富の差によるところが大きかった。米国ではありふれたものが、南に密かに持ち出すと途端に驚くほど価値あるものになったからだ。

そのころ、近所に厄介な隣人が住んでいた。日頃から大人は子どもたちに「変質者」が住むトレーラーには近づかないように言い聞かせていた。だからその通りにした。また、やたらに銃を撃ちたがる大酒飲みの「パットじいさん」という老人が暮らす掘っ立て小屋もあった。私がその前を通らないといけないと言うと、祖父はすぐにパットに電話した。その時のやりとりを今もはっきりと覚えている。「パット、また酔ってるんじゃねぇか?」祖父はそう尋ねると、パットの返事を待った。「まぁ、いい。今からわしの孫がお前の家の前を通るから、孫に向かってぶっ放すんじゃねぇぞ。」

その辺りは、ガラガラヘビも出没することはもう話したかな?

今振り返っても驚かされるが、両親は私にそんな村や周辺の砂山で友達と遊んでくるよう勧めていた。母は文字通り「お日様が沈むまで」外で遊んでおいでと言った。だからその通りにした。砂を掘っていくつも砦を築いた。両親はただこう言うだけだった。「天井が落っこちるぞ。」矢じり探しもした。(「ヘビには気をつけなさい!」)BBガンも撃ちまくった。(「目に当てないでね!」)

私は近所の山羊を荒野の牧草地まで連れて行くのを手伝っていた。11歳の時、自分の馬を手に入れたので、ずっと遠くまで足を伸ばすことができるようになった。メサ【周囲の地域から一段と高くなった、頂部が水平なテーブル形の巨大な岩山。米国南西部・メキシコの乾燥地によく見られる】に登ったり、リオグランデ川沿いを下ったりした。そこは岩だらけの地形で、砂にまみれた小屋や捨てられたボロボロの自動車に囲まれて、私はすっかり魅せられた。そして自然が大好きになった。

歴史を通じて自然主義者や環境保護論者たちが共有して抱いたインスピレーション、それは自然界を愛することだった。

「自然界のあらゆるものは信じられないほど素晴らしい。」ーアリストテレス(紀元前384322年)

 家の中や走る車の中にいて自然を愛することを学べるだろうか?可能かもしれないが、おそらくできないだろう。

「子どもが自らの体験を通して、大自然という偉大な書物を読み解くことや、地球の季節ごとの移り変わりとどのように創造的に接していくか。我々の子どもたちはもはやそういうことを学ばなくなっている。水がどこから流れて来て、どこへ行くのか、つきつめることはまずない。偉大なる天を賛美し人類の祭典と調和させることもすっかりなくなってしまった。」 ― トーマス・ベリー (Thomas Berry)19142009

 もし自然のままの地をひとりさまよう時に感じる、人を惹きつける危うさや心の高ぶりがなかったなら、私自身、これほど自然を恋い焦がれることもなかっただろう。

「自然に関する本を読むのも良かろう。しかし森の中を歩き耳を澄ませば、どんな本より多くを学べる。そこには神の声による語りかけがあるのだから。」 ― ジョージ・ワシントン・カーバー (George Washington Carver)18641943

私自身の子どもたちはそんな風に自由に自然に触れる機会に恵まれなかった。妻と私は典型的な90年代の親で、子どもたちがどこにいるか、いつも正確に把握しておかなければ気が済まなかった。もっともなことでしょう?しかし、そのために子どもたちは森をひとりさまようこともなく、神の声に耳を傾ける機会も奪われたのだった。保護者と一緒に森を歩いても、そこで得られる体験は全く異なったものになる。

「自然の真っ只中に身を置きなさい。たまには道なき道に分け入り、山に登り森で一1週間ほど過ごしてみること。そして心をきれいに洗いなさい。…だれもがパンを必要としているのと同じくらい、自然の素晴らしさに触れる必要がある。それは遊ぶ所であり祈りの場でもある。そこでは自然が心身ともに癒し、力を与えてくれるだろう。」ージョン・ミューア (John Muir)18381914

 リチャード・ルーブ(Richard Louv)は、2006年の草分け的な著書、「あなたの子どもには自然が足りない(Last Child in the Woods)」の中で、子どもたちは「自然欠乏障害」という病気にかかっている、と述べている。彼は自然に直に触れる体験こそが教育に不可欠と信じて疑わない。

 「自然を深く観察しなさい。そうすれば全てのことがもっとよく見えてくるだろう。」― アルバート・アインシュタイン(18791955

 歴史上の賢人たちは、自然から知的な刺激を受け、美を深く追求する満足感と精神的な慰めを得られることをよく理解していた。

 「科学者であろうとなかろうと、地球の美しさや神秘を感じ取れる人は、孤立を嘆いたり人生に疲れ果てたりすることは決してないでしょう。それぞれの生活における悩みや心配事が何であれ、内面的な満足に導き、生きていることの新たな喜びにつながる小道を見つけることができるに違いありません。」― レイチェル・カーソン(19071964

 「ものごとの光あるところへ歩み出せ。そして 大自然を師とせよ。」― ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)17701850

 「私を信じなさい、森の中では書物から得られるよりもっと多くを学べる。木々や石は、先生からは学べないことを教えてくれる。」― クレルヴォーの聖ベルナルドゥス(St. Bernard of Clairvaux)10901153

 自然の中に身を置くことが、多くの先賢を生むために必要な体験だったのなら、どうしてその機会を自分の子どもたちから奪おうとするのだろう?

 一方で、自然の中に子どもをひとりきりにするのは危険も伴う。

そのことに異議を唱えるつもりはない。子どもにとって自然体験がもたらす魔法は、その体験 ― とそれに伴う危険 ― が生き生きとした本物であるという事実から生まれる。しかしながら、教訓として注目すべきは、子どもは家に閉じこもっているより、自然の中に取り残された方がむしろ安全ということもある、ということ。病気や自動車事故や発砲事件が、子どもの死因の60%以上を占めるが、これらのいずれも自然の中にいたせいではない。子どもに対する性的虐待の約90%は地元の顔見知りによる犯行だ。

 私たちは安全のために子どもを閉じ込めてしまっていたが、一体何から守ろうとしていたのだろうか?自然のままの荒れ地は、多くの子どもたちにとって、ほぼ間違いなく家の近くより安全なのに。

 もちろん、単純な答えはない。しかし、もし大人たちが目を光らせていたとしたら、日の光を浴びて風に吹かれること、メキシコハマビシ【小さな鮮黄色の花と、クレオソートの強い匂いのする樹脂質の葉をつける。メキシコ北部およびその近隣の産】やユッカ【糸蘭。米国の温暖な地方に産する】に触れ、ガラガラヘビと出会い、ひと気のないところに足を踏み入れた時のビクビク、ワクワクする感覚を、私はこれほどまで愛しいと思うことはなかっただろう。事実、8歳から13歳の間に荒れた岩場で過ごした日々は、大人が付き添う特別なお出かけなどではなかった。

 「夜空の星も木々も、日の出も風も、もし日々の生活の中に入り込んでこないとしたら、一体何の意味があるだろう?」 ― E.M.フォースター(E.M. Forster)(18791970

 

 自然の中でのあらゆる体験が子どもの教育の基本であるとするリチャード・ルーブに同感だ。自然に触れることは数学や文学を学ぶことと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なことだ。だから、自分の孫たちには私が両親や祖父母からもらったプレゼントと同じものを贈りたい。神が創造された大自然の中で過ごす自由でひとりきりの時間を。 

 

Growing Up Free: Inspiring a Love of Nature

3/7/2014 9:42:00 AM

By Bryan Welch