真っ当な食料システムを求めて

私たちは簡潔な会話の世の中で暮らしている。テレビが登場する以前の時代には主役だった深い会話は、現代の私たちの忙しく短気な世の中には少なくなってしまった。もしあなたが誰かと意見が合わないならば、相手はたいてい1分で興味を失い議論に終止符をうつだろう。もしその間にポイントを稼げなければ、もう次の話題に進んでしまうのだ。

 ここ最近、食の問題に関心のある人にとっては対抗しなければならない数多くの誤解がある上に、自己主張は手短に行わなければならない。私がよく出くわすとてももどかしい誤解の典型的なものは、私の食に対する姿勢がお高くとまった気取り屋だと思われてしまうことだ。地元産の堆肥肥料で育った作物や牧草で育った肉を買おうものなら、エリート主義者かなにかのように見られてしまうのだ。質の悪い栄養の乏しい食事に20ドルや30ドル費やすことはなぜだか普通に見られるようだが。

 あるとんでもない例は大ヒットのドキュメンタリー映画『フード・インク(Food, Inc.)』にでてくる。夫、妻、ふたりの10代の子供の4人家族がバーガーキング(Burger King)で特大の夕食を食べに寄り、スーパーで生鮮食品を買う余裕のないことを嘆くというシーン。35年間バーガーキングには行っていないが、ちょっとネットで調べてみるとその食事にだいたいいくらかかるのかはわかる。巨大なソフトドリンクにポテトフライとデラックスバーガーというその食事はそれぞれ少なくとも8ドルかかり、4人家族なら最低32ドルかかっている。

 そのお金があれば、ー家は牧草育ちの牛肉―高級な世界に通用するひき肉―を1ポンド(約454g)、パン、付け合せとフライドポテトのためのじゃが芋が買え、素晴らしく美味しいクォーターパウンダー(1/4ポンドの肉を使ったハンバーガー)とポテトを楽しむことができる。うちの会社の1ポンドの牛肉のほうが彼らのバーガーキングの食事よりも栄養的に優れていることは保証できる。バーガーキングやその客をとやかくいいたいのでしはない。私はそこで食べている人たちを嘆いているのではなく、そこで食事をする方が安くて便利で、私の商品は高くて不便だから手が出ないと考えている人たちのことを嘆いているのだ。

 その結果はあらゆる食の議論に浸透している犠牲者心理だ。人々が、いい食べ物は高くて買えないと考えるのは集団的心理において事実当然のことである。なぜなら私の食べ物―私は「誠実な食べ物」と呼んでいる―についている値段は、たいてい産業的な値段よりも高く、私はすまなそうに頭を下げ、有罪確定のように反応する衝動に駆られる。私が定義している「誠実な食べ物」とは、環境を修復し、土壌を豊かにし、栄養が豊富で、人生―その生産や加工に携わる人や消費する人も含めて―を肯定するものだ。そして、たとえ私たちが自分たちの農業や市場向け菜園の背景にある価値を知っていても、この「誠実な食べ物」の活動の中にいる多くの人は、時々申し訳なく思ったり、「私にはいい食べ物は買えない」の心理に自分自身も心の深いところで揺さぶられるのを許すことさえある。

 私が考えているのは、「誠実な食べ物」を信条とする私たちが、簡潔な発言で食べ物の価格についての会話の道筋を変えることができるのか?私たちはエリート主義という疑いに対する、寛大で攻撃的でない答えを明確に話すことができるのか?ということだ。私はその答えを知っているかどうかわからないが、試してみたいと思っている提言がある。以下のそれぞれの短い問いかけは、食べ物に関して上流気取りと非難されるときや高品質な食べ物は高価な食べ物であり庶民には手が出せないという無意識の思い込みに直面したときにいつでも、攻撃するのではなく、より深い思考を誘うために質問するものである。

 

要求と必要性を分けられるか?

 ほとんどの人々は自分の買い物は賢く必要性があると考えているが、実際はほとんどすべての人が習慣となっている買い物を、必需品であるかどうかということよりも選択で行っている。ここに、私が観察したものを順不同に並べる:

・スターバックス(平日毎日ひとつ5ドルのコーヒーやカフェラテを買うと年間1,255ドルにもなる。)

・お酒

・デザイナージーンズ

・タバコ

・宝くじ

リストはここまででやめておくが、だいたいの傾向はわかってもらえただろう。人々は支出を調べて何が嗜好品なのかを見極めること―その額はかなり多額であることが多い―よりも、もう選択の余地が無いと思い込んでしまう方がずっと早い。

 よく思うのは、「誠実な食べ物」の価格に関する議論は、全人口のうち少数の困窮している人々に対処する答えを持っていないためにすぐに脱線してしまうということだ。そうではなくて、不必要なものを習慣的に買いつついい食べ物は高すぎると文句を言っている大多数の人々についての議論をすべきだ。

「低いところになっている実から採れ」ということわざはここに当てはまる。確かに困窮者は存在するが、まずは嗜好品―簡単に採れるところ―から考えてみよう。実際にいったいどれだけの人々が変化のための選択をすることができるかということを評価する前に議論の矛先をもっとも切迫した困窮者に向けるのは、不安定な木のてっぺんでどうやってすべてのりんごをとるかを決めてしまうまで木からりんごをとるのを拒んでいるようなものだ。議論の焦点をまずできることに集中し続ける必要がある。

。。。。。


和訳全文は10月末発行予定。


購読はこちらからどうぞ。


Fighting for a Sane Food System

By Joel Salatin 

October/November 2014