在来豚への情熱

急成長の豚農家が、産直レストランへ提供する、自然な農地で放牧豚を育てている。

 

 

 

文:ドーシー・ホルム・キンドラー (Dorsey Holme Kindler)

翻訳:金広 まさみ

 

それは2015年秋、ペンシルベニア州ドニゴール郊外のセブンスプリングスマウンテンリゾートでのマザーアースニューズフェアで十分何気なく始まりました。私は、そのイベントを取材しているいなか町の新聞記者としてそこにいたのです。兎を育てる講義に出席し、だれかが自然界での生活の知恵の様子を実演するのを見、スキーリフトに乗って山に登りました。しかし運命的な閃きの稲妻を受けたのは家畜のテントでした。

 そこでウィスコンシン州ラオナのホワイトバイソン農場 (White Bison Farm) のデイブ・クロナウアー (Dave Cronauer) にバッタリ会いました。彼は、斑の子豚が半分食べかけのリンゴの間で居眠りしている、小さな麦わらでいっぱいの囲いの隣に立っていました。彼は、アイダホ放牧豚という新しい在来豚の品種で、バークシャー、デュロックと特に草を食べて成長するよう開発されたクネクネの雑種だと説明しました。

 私はウェストバージニア州ホイーリングで報道記者として働いていましたが、オハイオ州セントクレアズビル近くの家族が最近引き払った農場に、グラスフェッド牛の事業を始めるため戻っていました。妻のクリスティーンは農業経済学の新設の博士でした。そして祖父は長年60万平米の土地でうまく牛肉を大量生産していました。しかし色々な理由で、私たちは実行可能な計画に向かうことができませんでした。

 「だけど、豚はどうだ?」その日のニュースを仕上げた時、思いついたのです。最初の事業の準備として完璧な2匹のお試しで小さく始めることができるだろうと。オハイオバレーに戻った産直レストランのオーナーシェフにメール連絡して、放牧豚に関心があるか聞きました。

 運好く、関心があったのです。私たちは1ポンド(450g) 3ドルで同意。そして34歳の時、農業への最初のベンチャー事業を始めました。

 6か月後、私の夢は18Kgの身をよじっている実体になりました。デイブの妻ジョディが私の腕の中に子豚を落とした時です。彼女は2匹目を車の後ろに運びました。

在来種の豚は、大きすぎる犬の木枠で保護し、妻と私は神経質な初めての親のように家に向かいました。ピッツバーグ自動車道路を運転している時、臭いが小さなRV車に充満しました。クリスティーンはどんな状態に陥ってしまったのだろうと思いながら、吐き気を催させる積み荷をじっと見ました。

 盛りだくさん。蓋を開ければ。暖かい気候を待つ間、彼らをガレージの藁の上で飼いました。そして早速、彼らは支配権を求めて1週間の戦争を始めました。私たちは家の中でせっせと仕事をしていたのですが、その時取っ組み合っている子豚が、沢山の古い陶磁器や銀器にぶつかって跳ね飛ばしたので大きな凄まじい音を聞きました。「だめ!」喧嘩を止めるため駆け込みながら私は叫びました。彼らがしていることは、自然で大部分は害のないことだと知らずに。それから彼らを外に出しても事態はほとんど楽になりませんでした。

私たちがどんなにしょっちゅう新鮮な放牧地にローテーションさせたにも関わらず、彼らはびしょ濡れの春の地面に大きな窪みを掘りました。電気柵の弱い所を見つけ出して頻繁に逃げ出しました。一度怒った隣人がベルモント郡保安官事務所に電話。そして副官が豚を囲いに入れるのを手伝ってくれました。楽しんでいるのを懸命に隠しつつ。

 夏の暑さがやって来ると、灌漑装置が無いため日に数回 19L のバケツを持って上り坂をてくてく歩くことになります。そして私たちは、彼らの体重が十分早く増えないのを心配しました。この頃クリスティーンはチコのカリフォルニア州立大学から仕事の申し出に応じました。大学側は彼女に初秋までに報告してもらう必要がありました。それは屠畜の日を早め、さらに予定を押し縮めたのです。

既にストレスの多い状況をより悪くしたことに、エネルギー会社が15年以上も前に亡父が署名した賃貸借契約を履行するために現れました。稼働中の天然ガス田の隣で育てた豚の肉を道義にかなって売ることができるか?土地に水圧破砕の液体が注入される前に、市場に出すと決めました。しかしそれは間近でした。

 それからレストランのオーナーが握手による契約を破棄しました。最後の頼みの綱だったのに。しかし月が経たないうちに、私たちはバージニア州ポリフェイス農場 (Polyface Farms) での「ルナティック・ツアー(Lunatic Tour)」に申し込みました。それで私が続ける気になるのではと期待して、クリスティーンが私に行くように強く勧めたのです。

 ツアーが終わってジョエル・サラティン (Joel Salatin) の周りの観衆が少なくなった時、私はなんとか彼の注意をひきました。私たちは農場の店の後ろの日陰でプラスチックの椅子に座り、彼に悩みの種の話をしました。彼は彼自身の失敗を話し、助言してくれました。そして最後まで事業を見届けるよう励ましたのです。勇気づけられて、オハイオに戻り、どんな困難があろうとも腹を据えて、私は買い手を見つけることになりました。

 助け舟ははピッツバーグポストガゼットの食品記者、ボブ・バッツJr.  (Bob Batz Jr.) という形で訪れました。彼は私に町の数人のオーナーシェフを紹介し、7月の終わりまでには、私は65Kgの放牧豚で一杯のクーラーの取っ手を持って混みあった通りを通り抜けていました。

 賞賛されているリチャード・デシャンツレストラングループ (Richard DeShantz Restaurant Group) のシェフ、ダン・カールトン (Dan Carlton) がもう一方の端を持って、私たちはもうじき開店するポークビーンズレストランに向かっていました。そこで1年以内に私の放牧豚が自家製肉製品の形でメニューに載ることになっていました。(他の豚はウェストバージニア州のバーンウィズインというB&Bに行きました。)

 このコラムを終えて、私はカリフォルニア州チコの小さな農業共同体の自宅事務所に座っています。机の上には大量のバナナの皮を鼻で押し動かしている2匹の泥だらけの子豚の写真があります。最初のレストランの支払い領収書は額に入って壁に掛かっています。この夏、フレスノ郊外のブリーダーからさらに10匹の子豚を納入してもらいます。

 そして全部の近所の産直レストランを考えると、あの蒸し暑い夏の日、農場の店の後ろでジョエル・サラティンが言ったことを思い起こします。

 彼はトレードマークの眼鏡の奥で青い目を輝かせて、身を乗り出して言いました。「ドーシー、成功の入り口で諦めたくないだろう。」

 私は聞けて嬉しいのです。

 

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A Passion for Heritage Pigs

By Dorsey Holme Kindler

June/July 2017