熊手の教え:信仰に基づく農業

マザーアースニューズ ジョエル・サラティン 農

ジョエルが探るのは、いかに宗教原理が、動物、植物、土地の管理者としての自身に影響しているかということ。

文:ジョエル・サラティン (Joel Salatin)

翻訳:浅野 綾子

 

環境保護がテーマの議論ではいつもと言っていいほど、堆肥の山やため池をつくる神聖な理由が、実用的なハウツーの話にまぎれて話されない。つい、ハウツー話で盛り上がってしまうのだ。もちろんそれは構わないし、良いことだ。でも人々をして堆肥の山やため池をつくらせる伝承を後世に残したいなら、その理由について話さなければならない。

 「5 つのなぜ」と呼ばれる質問テクニックを使うビジネスコンサルタントがいる。その考えでは、問題の核心に迫るには「なぜ」と 5 回問う必要があるという。ちょっとしたお楽しみで、堆肥の山について 1 回やってみよう。

質問 1:なぜ堆肥の山をつくるのですか。

答え:バイオマスを速く完全に分解するためです。

質問 2:なぜバイオマスを速く完全に分解するのですか。

答え:分解されたバイオマスは、土の地力改良剤として最適だからです。

質問 3:なぜ分解されたバイオマスが土の地力改良剤として最適なのですか。

答え:それが土中微生物の餌となるからです。

質問 4:なぜ土中の微生物に餌をやるのが必要なのですか。

答え:それは、微生物は食べる必要がある生き物だからです。

質問 5:なぜ生き物は食べなければならないのですか。

答え:なぜなら神は生き物を食べるものとしてお創りになられたからです。

 問答の進め方や「神」についての私の説明をおかしいと思うかもしれないが、ここでのポイントは、最後には創造やなぜ私たちはここにいるのか、それらすべての核心についての大きな質問で終わるということだ。何を信じるにせよ、「なぜ」を繰り返し問えば結局自分の根本的価値観に到達する。

 なぜ私のやり方で農業をするのかと聞かれる時、私のお気に入りの答えは「それが正しいことだから」だ。でも、これは明らかに確信に満ちた言い方だ。誰かが違うやり方で農業をするとしたら、そのやり方は「間違い」となり得る。究極的な善悪は、個々人や信条によって異なる倫理的規範に基づいている。面白いことに、概して、私が属している信仰コミュニティでは、同じ聖書を読んでいるにもかかわらず、大地のスチュワードシップ [受託責任] について私と異なる見解をとることがままある。化学肥料や遺伝子組み換えトウモロコシや工場式農業を推進することを天職とする教会仲間は、神から委託された地上の支配 (dominion mandate) にもとづいて自分たちの仕事をすぐさま正当化すると思う。「支配 (dominion) 」がキーワードとなる時、それと結びつく方法は育てることが目的ではなく、征服することが目的となることは分かるだろう。実際、神は、歴史を通して多くの残虐行為のために引き合いに出されてきたのだ。 

 ベトナム戦争の時代や、マザーアースニューズ創刊やヒッピーの出現、ウッドストック開催 [1969年ニューヨーク州ウッドストックで行われたロック史上最大のフェスティバル。当時の不安定な社会へ向け、音楽によって愛と平和をアピールした] の時期にかけて、保守的なクリスチャン家庭のティーンエイジャーだった私は、奇妙な分裂の中で生きていた。教会の友達は決まって健康食品や堆肥の山をツリーハガー [木に抱きつく人と呼ばれた環境保護主唱者] のばかげた行動の産物だと批判した。農場つながりの友達はガイアや自由恋愛、帰農について話をしていた。私の家庭では、この 2 つの世界は相容れない世界ではなかった。この経験を通して、またその頃から、アースケア(Earth-care:地球を守る)コミュニティが自分の聖書の世界観と矛盾するとは思っていなかった。それどころか、多くの点で補い合うと思ってきた。事実、今、自分の考えを簡潔に言うならこうなるだろう。すべての形ある創造物は、宗教的真理の実例であると。別の言葉で言うなら、私が信じる神は、人間の力によっては見ることができないものを実際に見せる方法が必要だったということだ。型破りな方法をとる自分の農業スタイルは、この深い考えによってつくられている。

 たとえば、「赦し」は宗教上の大原則だ。「赦し」とはどのような姿なのだろうか。病気があたり一面で幅を利かせる時、それは健康な動物や植物の姿をしている。旱魃が土から水分を吸い上げる時、それは青々とした草の姿をしている。洪水が近隣を襲う時、それは満たされていく池の姿をしている。竜巻による破壊の後、それは建て直しが簡単にできるインフラの姿をしている。これらの例それぞれの対応例が、慣行の工業化農業に見られる。工業化農業では水は枯れ、免疫機能は衰え、災害の後の再建が難しい一体構造の建築物が必要とされる。私は、農場の訪問客が「わぁ、赦しというのはこういうことなんだ」と喚声を上げ続けてほしいと思っている。

 別の例をあげよう。隣人愛だ。ほとんどの人が黄金律を知っている。「あなたたちが人々からして欲しいと思うことのすべてを、あなたたちも人々にせよ」。ごくシンプルだが、ここでも、これはどのような姿をしているのだろうか。近隣に悪臭を漂わせ、帯水層を汚染するというような姿ではもちろんない。農薬が境界フェンスを越えて漂う、または人の道に反した遺伝子組換え植物が隣人の畑に侵入することでもない。 

 聖書の物語によれば、この物質的な存在である人間についての最高の賞賛は、「よろしい、善き、忠実な僕よ」だ。「忠実」とはどのような姿なのだろう。それには、人間のスチュワードシップと人間の手にゆだねられた神の贈り物について考える必要がある。「忠実」について、実際にどのように行動すれば、目に見えない教えを理解することになるだろうか。私なら、物質世界を手入れする方法を通して「忠実」の実例を示すと言うだろう。別の言葉で言えば、人間の足取り、労働の後には、土は健康になり、空気は息がしやすくなり、水は飲みやすくならねばならない。人にいたっては、生態系がどのように働くかについて意識的に気づくようになり、生命の不思議について一層の畏敬の念を抱くようにならねばならない。これは、賛美歌を念入りに選ぶのと同じくらい一生懸命、微小な生命体についても考える必要があるということだ。そう思わないだろうか。これは、神の勢力圏外にあるものなど存在しないということだ。これは、ひとつかみの健康な土にいる、人間が依存する微生物のいのちすべてに感謝することだ。目に見えるものは目に見えないものに完全に依存しているということに気づくことは、もう 1 つの深遠なエコロジカル原則であり、神聖な気づきを伴う。神聖な視点からみて、メキシコ湾にあるロードアイランド州と同じ大きさのデッドゾーン [生命を維持できるだけの酸素が存在しない海域。一般に肥料を含んだ農業排水によって生じるといわれる。メキシコ湾では2010年に原油流出事故もあった] について、投資に見合った利益だと思う人はいるだろうか。それとも、数百年にわたりヨーロッパがバージニア州のシェナンドー・バレーを占領して 90~150cm の表土浸食を生み出したことについて考えている人はいるだろうか。これは好ましい投資利益率だろうか。

 その数百年の間ずっと、人々は土壌をやせさせて金に変え、その金を献金皿に盛り、世界中の布教活動を支援してきた。それは、精神と物質の結合を分離させる偽善をただ強めるだけだった。究極の分離思考は、あたかも精神には道徳的な面があるが物質にはないかのように 2 つの領域を分ける時だ。 

 最後に、よく知られた聖書のテーマの「呼ぶ者はすべて (whosoever will) 」、探すものは見出すとの意味だ。「呼ぶ者はすべて」とはどのような姿だろうか。農業では、参入が容易なシステムの姿だと私は言いたい。タイソン [タイソン・フーズ:アメリカの食肉加工大手企業] 向けの鶏を育てたいと思う場合、初めにしなければならないことは、50 万ドルのフットボール場サイズの工場鶏舎を建てることだ。参入の障害だと言う人もいるかもしれない。私ならもちろんそう言うだろう。それどころか、エリート主義だとさえ言うだろう。業界のフラタニティ [男子学生の社交クラブ] に参加するのに 50 万ドル払わなければならないとしたら、とんでもなくきつい。

 これを、移動可能なモジュール式鶏舎を使う放し飼いと比べてみよう。私たちの農場では、この鶏舎の新品を 300 ドルでつくることができる。これが「呼ぶ者はすべて」モデルだ。ほとんど誰でも参入できる。果樹園の足元や牛と一緒になど、自分の所有地ではない場所でも放し飼いで鶏を育てている人がたくさんいる。なぜなら、放し飼いは他の事業と具合良く一緒にできるからだ。こうしたモデルが与えてくれる物質的な自立力は、「呼ぶ者はすべて」が与えてくれる精神的な自立力と同様だ。そう、貧しい人も、お金持ちも、頭の良い人も、悪い人も、賢い人も、愚かな人も。みんな来るもの拒まずなのだ。市場に参入するのにトマトを 20 トン育てなければならないとしたら非常に厳しい。でも、近所の人やファーマーズマーケットで売るなら、2、3 本育てれば売り場に出せる。これが「呼ぶ者はすべて」なのだ。 

 他にも多くの神聖な概念について、自分たちの農業で実例を示すことができるし、実際に本も書いている。「The Marvelous Pigness of Pigs: Caring for All of God’s Creation(豚の最高の豚らしさ:神の創造物すべてに目をむける)」だ。矛盾した価値観の緊張感に生きる、慣行的保守的化学ベースの工場農家になることなど想像できない。あえて聞こう。あなたが教会の信徒席で心に抱く信仰がメニューに表れているだろうか。これを農家と消費者たちに聞きたい。常にと言っていいほど、説教台で採り上げられる偉大な宗教的真理が、実際の畑や食事に採り入れられることはない。

 精神と物質の世界を調和させるのは 1 つのことだ。精神的な理解に基づいて物質世界の手入れができればなおさら良い。信仰のコミュニティが、地球のスチュワードシップを宗教原則と同じように、現実にとても重要なものとして受け入れる日が来ることを切望してやまない。それは同じものなのだ。

 

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Faith-Based Farming

By Joel Salatin|  June/July 2019