より良い世界のヴィジョン(その1)

  マザー・アース・ニュースのページで目にするあらゆるアイデアは、同じ目的から発想を得ている。その目的とは、後世の人々のために、美しく豊かで健全な惑星を創造することだ。私たちは、普通の人々が実世界で活用できる具体的なアイデアの方を好む。そうした発想は常に、前向きな見通しと変える力を信じることから始まる。

  数年前、私が作成しては作り直し始めたこと、それは次世代に残したい健全な世界作りのための自分なりのアイデアだった。他の遺産と共に、ひ孫たちには美しいままの場所で暮らしてほしい。

  過去30年間に発展途上世界を旅したことのある人なら誰でも、多くの都市を飲み込む広大なスラム街を目にしている。古都のさびれた地域にはスラム街がひしめき、最近できた貧民街は、より裕福な都市部を取り囲んでいることが多い。世界規模では、約10億人が今日スラムで生活しており、国連は2030年までにこの数が2倍になると予測している。

  スラム街は、爆発的に人口密度の高い最小の人間収容所で、掘っ立て小屋やあばら屋、ときには段ボール箱もある。一般的に言えば、スラム街の住人はめったに悪天候から守られることはない。下水は未処理だ。そこに住む子供たちは教育を受けていない。徐々に世界のスラム街は、使用済みコンピューター部品のリサイクルや、廃棄場のゴミあさりのような、さまざまな有害労働の請け負い元となる。

  スラム街は美しくないが、私は固く信じている ― みんながその中にわずかでも美しさを見出せるはずだと。どこにいても、美しさを生み出そうとする人々はいる。しかし、醜さがスラム街を決定づける特徴のひとつであることに変わりはない。

  美しさの欠如はしばしば保健衛生の欠如を意味し、世界中に転移するスラム街は、深刻な経済病弊の指標となっている。世界の富裕層の生活を増強させるにつれ、経済格差はがんのように成長してきた。

  貧困者の生活状況は決して過去最悪ではない。有史を通じて、一定数の恵まれない人々は、住まいも澄んだ水も十分な食糧もない暮らしをしていた。そのような状況は、人類の全歴史のなかで目立っ変化していない。一方、21世紀の大富豪たちは、かつての国王や皇帝も想像できないほどの贅沢な生活を送っている。富める者たちは、悪臭をかぐ必要もないし、不快な景色を見る必要もない。生まれてから死ぬまで、温暖な空気や透き通った水、優雅な娯楽を利用できる。23時間もあれば、彼らを喜ばせる地球上のどんな場所にも到着できる。ほぼどんな痛みも緩和できる薬もある。そして、スラム街の徒歩圏内に住むことが多い。

 

経済格差の修復

  私が描く人類の未来像では、美しさを育てるため、貧困者は引き上げられなければならない。私は、経済格差を排除した世界を思い描いているわけではない。私たち個々人の生活水準を上げるチャンスが、事業や革新に火をつける莫大なエネルギー源になる。今あるものと、手に入れたいものとのギャップを埋めることが、強力な動機付けになりうるのだ。

  私は、もはや非人間的な状態を黙認しない人間社会を強く心に描いている。人々が飢えることのない世界を思うのは、私たちがもう飢餓に耐えられないからだ。今日、飢えを根絶するだけの十分な食糧があるのに、私たちは、そうすることが必要だという決定を全体として行っていない。

  貧困者は、定義の仕方によっては常に存在するだろう。でも、私たちにはその定義を変える力がある。貧困者も、食料棚には食料を、近隣には医師を、暮らしには美しさを持つべきだ。夢は、これ以下の生活に耐える国がなくなることだ。貧しい人々、そう、世界中の誰もが、壮大かつ不変の自然も享受すべきだ。

  世界中のほぼすべての文学的伝統において、依然として、制限のない自然は本質的な美しさの基準となっている。あるリビア人の小説家は、サハラ砂漠の奥地にある人跡未踏の砂丘のことを感動的に記す。あるカナダの詩人は、グレート・ノース・ウッズ(Great North Woods)の氷で覆われた湖を描写する。そして、ピグミー族の語り部は、かすかに変化するアフリカ・ジャングルの美しさを歌う。

  自然の美しさは、私たち人間が作りだした芸術を照らし合わせる基準であることが多い。芸術によって自然は詳しく語られる。語るべき自然なくして、美を定義することなどできるだろうか。

  私は、この惑星の生態系のほとんど、すなわち亜熱帯の砂漠から海底、草原から熱帯雨林、高山ツンドラ地帯から北方林までを訪れる機会に恵まれた。あらゆる自然環境は、私たちが想像できないほど美しい。私たちは、ある理由から自然の美しさをきちんと保護しなければならない ― なぜなら、自然から触発されなければ、私たち自身で自然の美しさを思い描くことできないからだ。

  近代的な動物園を設計する人たちは、「逃走距離」と呼ばれる基準を使う。ほとんどの動物は、驚かされた時、後ろを振り向く前に走るだろう決まった距離がある。動物園の囲いが、少なくとも動物の逃走距離よりやや広ければ、その生き物はより穏やかで健康になる。設計者が逃走距離を考慮に入れなければ、動物たちは神経質で闘争的で健康とはいえなくなる。

美しさの他に、荒野もまた私たちに逃走距離を与えてくれる。この惑星に空き地がある限り、私たちの心は必要が生じると、野生の美しさを備えたそれらの場所に逃れることになるのだ。

そこで私の見通しでは、地球全体のあらゆる固有の生態系のある程度の量は、自然の状態で守られるだろう。おそらく、少なくとも各大陸の20%ずつは、各生物群系や各生態系に割り当てられた原野として取っておくことができる。アメリカでは、平原の20%、森の20%、湿地の20%、砂漠の少なくとも20%は、神の創造物として永遠に保護され、訪問者には開放されるが乗り物では入れないだろう。そこにどんな天然資源が含まれていようと、満場一致で、永久に未開発のまま残るだろう。美しさと豊かさを守るという責任の証として。

 

私はひ孫たちに、ただ美しいだけでなく豊かな世界で暮らして欲しいと願っている。


より良い世界のヴィジョン(その2)

 

A Vision for a Better World, Part 1

9/11/2013 3:15:00 PM

By Bryan Welch